教会の歴史

以前の聖堂

藤沢の町の真中に、一段と高くそびえている十字架、八角形の聖堂、それが聖シモン、聖ユダを守護者とする藤沢カトリック教会です。
 終戦間もなく、中国での宣教を中断した聖コロンバン会は、神奈川県の湘南地区を担当するようになり、東海道線に沿った各駅を中心にして各地に教会を建てました。藤沢の町の真中に、一段と高くそびえている十字架、八角形の聖堂、それが聖シモン、聖ユダを守護者とする藤沢カトリック教会です。

 終戦間もなく、中国での宣教を中断した聖コロンバン会は、神奈川県の湘南地区を担当するようになり、東海道線に沿った各駅を中心にして各地に教会を建てました。
 その一環として、現在の藤沢市役所がある裏手の御弊山に、最初の土地が予定されましたが、水道をひくのが困難なため、代って、駅の南口にある鵠沼の現在地、約1200坪が購入されました。
 1953年、その松林に囲まれた丘の上に教会の建設が始められました。その経費の殆んどは、アメリカ人の寄附金によってまかなわれていたわけです。なぜならばその頃の日本人は殆んどが貧しく、その上、藤沢地区の信者の数も、ごくわずかであり、しかも、信者間の交流も、団体もなく、所属は片瀬教会とはいえ、あるものは、藤沢本町にあったキンダーハウスや、聖心愛子会本部修道院、そして、旧海軍航空隊の兵舎であった支部修道院、それに、茅ヶ崎教会や、戸塚区原宿の聖母の園などへ通っていたからなのです。
 1955年4月29日、新教会がようやく出来上り、天皇誕生日に献堂式を迎えることが出来ました。鉄筋コンクリートに白く塗られた丘の上の教会、建坪110坪、さほど大きな教会ではありませんが、それは、その頃の藤沢市の人口にはふさわしい教会でした。
 献堂式当日の様子については、記録に次のようにあります。「2、3日来の雨も止み、何か約束したように朝から陽がさしはじめた。当日、午前9時ころから横浜教区の司祭、修道士、修道女たち、それに来賓として来られた金子市長をはじめ関係者たち、1000人近い信者たちで立錐の余地もないくらいに聖堂内は埋め尽くされてしまった。定刻、午前10時、荒井司教によって式は進められ、聖水をもって教会の外側は聖められていった。それに続く聖職者の行列は祈祷を誦えつつ一巡して諸聖人の連祷と共に聖堂に入り、内壁の祝別に続いてごミサの後、司教の説教をもって式は終った。」

青年会

このようにして新しく出発した藤沢教会の信者は、およそ300人、小教区の管轄は、片瀬地区を除く、藤沢市の大部分であり、藤沢、鵠沼、辻堂はもとより遠く、六会、長後、高座渋谷の方までも含まれていました。その後、寄り合い世帯であった信者たちの間にも、いつしか和合が生まれ、主任司祭を中心として、青年会、婦人会、ヨゼフ会などが生まれ、聖歌隊のコーラスや、日曜学校なども開かれてゆきました。翌1956年12月には既存の司祭館に信徒会館も増設されました。

以前の聖堂内部

1957年9月頃某宗教団体の狂気信者が、聖堂内で祭壇を焼くという事件が起こりました。そして、この頃には、学生などの求道者もふえたため、聖堂内のベンチもふやされ、レジオ・マリエ、ヴィンセンチオ・ア・パウロ会などの活動も盛んとなり、1958年頃、わずか500人足らずの信者も、1963年頃には、800人近くにもふえました。

 アイルランドより寄附された鐘楼を建設したり、聖堂内の祭壇正面に舟越保武製作の等身大十字架像を飾ったのもこの頃のことです。1963年8月頃、すでに藤沢市は駅前の区画整理を計画していました。そのため、丘の上の教会は、削られることになってしまいました。永いこと、親しんで来た教会も、一体、どんな姿になるのであろうか、一様に期待と不安が交錯する中で、新しく大きな教会を夢見ながら、信者たちはよくまとまり、よく働きました。
 1968年12月、いよいよ仮教会への移転です。多少不便であっても誰一人不平を云う人はいませんでした。多分、希望があったからでしょう。そして、ごミサの帰り道、新聖堂の建築現場を見るのも、何となく喜びの一つでした。また、新しい教会の建設資金の一部のためバザーが催されたのは、翌1969年9月でした。その日は好天に恵まれ、大成功でした。信者が皆で力を合わせて頑張った結果だったのでしょうか。
 そして待ちに待った献堂式の日も、目前に迫ってきました。ちょうど藤沢市は、東京のベッドタウンとして、交通上からも申し分のない場所であったため、1966年頃より、各所に、大きな、住宅団地が建設されてきました。藤沢団地、辻堂団地、善行団地、亀井野団地など、およそ数えたら限りがない程でした。そして、それに比例して信者の数も急激に上昇し、新聖堂の献堂式を迎える頃には、1600名にも達し、湘南地区のどの教会よりも大世帯になりました。
 1970年3月8日、感激を抑えきれない献堂式の当日、荒井司教さまをはじめ、聖コロンバン会管区長モリアリティ神父さま、湘南地区代表スカーリー神父さまなど、11人の司祭による共同司式に始まり、来賓として金子藤沢市長も祝辞を述べ、合わせて1500人が参加して盛大な祝典が催されました。総工費6000万円、それは聖コロンバン会からの寄附金と、信者たちの負担金、それに藤沢市からの補償金などでした。
 新聖堂は日本でも、世界でも珍しい八角形の構造で、最大収容人員1000人にも及ぶ、190坪の大聖堂になりました。その後も信者数は増え続け、総数3500名を数える大世帯となって現在に至っています。藤沢教会は、1994年息子を持ちました。藤沢市北部における福音宣教の拠点としてのカトリック湘南台センターです。このセンターを通して、多くの方々に福音のメッセージが伝えることができましたが、2020年11月末に役割を終えることとなりました。